マッターホルン挑戦記:登頂断念
この記事は、2023年9月に行った、マッターホルン登山について書いたものです(全4回のシリーズ)。
- 第1回:準備編
- 第2回:試験登山編
- 第3回:登頂断念(本記事)
- 第4回:観光と旅の振り返り
突然の高熱
ブライトホルンでの試験登山を終えてホテルに戻ると、急な疲労感に襲われた。
ツェルマットに来て4日目。考えてみれば、長時間に及ぶ日本からの移動のあと、3日続けての登山。
1日当たりの行動時間は長くないとはいえ、疲れない方が不思議かもしれない。僕より年齢は上だが、体力があるITOさんも、さすがにしんどそうだ。
しかし、部屋で一休みしても、僕の体調は急激に悪化していく。これは何かおかしい。
フラフラになりながらも、近くのお店で体温計を購入して測ってみると、なんと39℃を超える高熱。
出発の数週間前、新型コロナに感染したので、その心配はないだろう。初めて来る国なので、日本にはないウイルスという可能性もあるのかもしれない。
Iさんも心配して、ホテルまで薬や日本の食事を届けに来てくれた。そのおかげもあり、夜にはだいぶ熱も下がった。
なお、ブライトホルンに登ったこの日から、天気は下り坂。翌日も雪の予報が出ているため、マッターホルンの登頂予定は後ろ倒しに。ルートに新雪が付くと難易度が上がり、場合によっては山に入れなくなる可能性もある。天候ばかりはどうしようもない。
一方で、体を休める時間ができたのはありがたい。登頂に向けて不安要素満載になってしまったが、体調と天候が回復することを信じて待ちたい。
ヘルンリ小屋へ
ブライトホルンでの試験登山のあと、1日の天候待ちを経て、ガイドから小屋入りのゴーサインが出た。
一般的にマッターホルンに登る場合、登頂前日にヘルンリ小屋(3,260m)に宿泊。翌早朝に出発し、4,478mのピークまで往復してそのまま一気に下山する。
僕の体調はまだ万全ではないが、1日休息日ができたことでだいぶ回復した。
この日は、夕方に小屋でガイドと合流する予定。それまでに自分達の好きなタイミングで小屋に到着すればいいので、お昼頃からのんびり出発。
ヘルンリ小屋へは、ツェルマット到着の翌日、Iさんと一緒に登っている。道順の心配はない。まずはシュヴァルツゼー(2,583m)まで、ゴンドラで上がる。
ここから、標高差約700mのハイキングだ。まだ本調子ではないため、意識してかなりゆっくり目に歩く。
この日は雲が多かったが、とにかく明日さえ晴れてくれれば文句は言わない。
小屋に到着し、受付を済ます。海外で初めての山小屋泊だ。
ヘルンリ小屋がスイスやヨーロッパの標準的な山小屋なのかはわからないけど、2段ベッドの相部屋であることを除けば、どちらかというとホテルに近い雰囲気。
薄暗くなってから、ガイドのヨハンとヴォルフィが到着。日本の山小屋と違い、「遅くても16時までに到着」といったことはないようだ。
夕食はスープに始まり、メインディッシュの後にデザートまで出てくる。
明日の天候は、快晴という訳にはいかないが、登頂には問題ないコンディションとのことだ。
頂上からの景色はもちろん楽しみだが、試験登山を終えてから、ずっと不安定な予報。山自体に入れない可能性も十分あった。なんとか挑戦の機会を得られたことに安堵した。
夕食後に翌日の装備チェック。とにかく軽くするように言われる。午後の遅い時間は、若干雨の可能性があったので、当然のようにレインウェアをザックに入れようとする。
するとヴォルフィは、「レインウェアは置いていこう。その分、軽くなって早く下りてこられるから、雨には降られずに済む」と。
いかにもヨーロッパらしい考え方だ。Light & Fast。18Lとただでさえ小さなザックはペラペラだった。
翌日の朝食は4:30。日が長いシーズン序盤だと、もう少し早いのかもしれない。
マッターホルン登山では、出発の順番が明確に決められている。最初は現地ガイド、次に国外のガイド、最後に個人登山者だ。
シーズン終盤のこの日、宿泊者は多くなかった。ヴォルフィは現地ガイドなので、我々は一番にスタートできるが、「焦る必要はないよ、落ち着いて登れば大丈夫だ」とのこと。頼もしい。
体調もまずまず。高まる緊張の中、早めにベッドに入った。
登頂断念
いよいよ登頂の日。4時頃に起きて、洗面を済ませる。
昨晩はほとんど眠れなかった。いつでもどこでも寝られることが、履歴書に書けるくらいの特技なのだが、さすがに興奮していたらしい。
1年近く前から計画を開始し、日本の山でのトレーニング。遥々スイスまでやって来て、試験登山を受けた。その成果が、今日決まるのだ。
4:30になり、朝食を食べに食堂へ。すでにヴォルフィの姿がある。
しかし、僕と目が合うなり、首を横に振る。最初は全く何のことだか分からなかったが、外に出てみると、なんと薄っすら雪が積もっている。
全く予報にはなかった雪だ。ヴォルフィも、信じられないといった顔をしている。
ヘルンリ小屋から頂上までは、約1,200mの標高差。上部は雲に隠れているが、どういう状況かは容易に想像できる。
マッターホルン登山では、基本的に頂上付近では雪と岩のミックスになる。ここは当然時間がかかるが、大部分の雪がない箇所をスピーディに通過することで、日帰り登山が成り立っているのだ。
出発地点から雪が積もっている状況では、とても1日で行って帰って来ることはできない。頂上に向かって出発した人もいたけど、皆すぐに引き返して戻ってくる。とても登頂できるようなコンディションではないとのこと。
もっとも、仮にヴォルフィが出発すると言っても、僕は行きたくないと答えただろう。どう考えても危険すぎる。
とりあえず暗い雰囲気のなか朝食を食べ、今後の予定についてヨハン・ヴォルフィと相談。あと2日間の予備日があるけど、雪が融けるにはもう少し時間がかかりそう。本当に残念だけど、マッターホルン登頂は断念することに。
高山では、天候が読みづらく、急な天候不良による登山中止は珍しくないだろう。特にマッターホルンは独立峰のため、天気は変わりやすそうだ。ヨハンやヴォルフィは、こうしたケースを何度も経験しているはずだが、一緒に落ち込んでくれている様子だった。例えそれもガイド業の一部なのだとしても、心遣いがありがたかった。
ちなみに、この日の登山者の中で、アジア人は我々だけだった。恐らく、他はみんなヨーロッパ人。全員と話した訳ではないが、スイス国内から来たという人も少なくなかった。
もちろんみんな残念そうではあったが、我々が断トツで一番落ち込んでいたと思う。「今回はツイてなかったけど、また来ればいいしね!」といった声が多かった。ヨーロッパ圏内であれば、東京から北海道の山に登りに行くくらいの感覚なのかもしれない。「日本から来た」と話すと、みんな気の毒そうな顔をしていた。
重い足取りで山を下りた。途中、諦め切れない思いで、何度も山頂方向を振り返った。
もちろん、ツェルマットに来ても登れない可能性があることは理解していたけど、出発直前での中止。例えば自分の実力不足で、途中で時間切れになったならまだしも(それはそれで別の悔しさがありそうだが)、挑戦自体が出来ないのは本当にやり切れない思いだった。
ITOさんも同じような気持ちだったようだ。下山後、この日は2人でホテルの部屋の天井を見ながら過ごした。自分でも、こんなにショックを受けるとは思っていなかった。
僕のSNSで登頂断念を知った日本の知り合いから、慰めのメッセージがいくつも届き、とても救われた。
中には同じように、海外での登山が天候不良によって中止になってしまい、悔しい思いをした経験が綴られているものもあった。
以前、「時間とお金をかけて準備して海外に行き、お目当ての山が登れなかった悔しさは、経験しないとわからない」という話を仲間から聞いたことがあった。本当にその通りだと思う。
マッターホルンは、比較的アクセスも良く、高度順応の日数もそれほど必要ない。山によっては、ヘリやセスナの手配をし、長期間の高度順応が必要になる場合もある。そのような登山で、山頂に立てなかった時の悔しさは計り知れない。
アルプフーベル登山
登頂を断念した日の夕方、Iさんと残りの日程について相談させてもらった。
「せっかくなので、別の山に登られてはどうですか?」という提案をいただく。正直、すぐに気持ちを切り替えるのは難しかったが、遥々スイスまで来たのだ。落ち込んでばかりでは勿体ない。
すぐに頭に浮かんだのはモンテ・ローザ(4,634m)。ヘルンリ小屋までのトレイルでも、その美しい山容を見ながら歩いており、スイスの最高峰でもある。
ただし行程が長く、日程的に厳しい。そんな中、「ヘリで近くの氷河まで飛べば、半日で登れますよ」…!?
最初に申し上げておきたいのは、僕は決して「登頂できれば手段は問わない」というタイプの人間ではないということ。でも登れないよりは登れた方がいいし、富士山もよく考えたらほとんどの人は5合目まで乗り物で行ってるし…。
ということで、ヘリを使ったモンテ・ローザ登山に決定!笑
ちなみに費用面については、今回はガイド・ヘリ・山小屋などの交渉/手配を一括してIさんにお願いしていて、細かい内訳はわからないのだが、自分で歩いて登るマッターホルン登山とそれほど変わらないらしい。日帰りなので山小屋代が不要で、行動時間が短くなるため、何よりガイド料が安くなるとのこと。
意外だったけど、日本に比べるとヨーロッパでは、ヘリ登山が身近な存在なのだろう。
マッターホルンの登頂は断念したものの、ヘルンリ小屋での宿泊費(登山客がガイド分も払う)とキャンセル費(正確には、ガイドにヘルンリ小屋まで往復してもらった分の費用)は発生している。主にその分の差額は、追加でお支払いすることにした。
登頂を断念した翌日は、残念ながら天気が悪かったため、さらにその翌日にモンテ・ローザへ登ることに。
当日の朝、ITOさんとホテルから歩いて、ツェルマットの街にあるヘリポートへ向かう。
ヘリポートで、この日のガイド・アントワヌと合流(残念ながら、ヨハンとヴォルフィは別の登山客との仕事が先に入っていた)。フランス語圏の出身だそうだ。
挨拶もそこそこに、ヘリに乗り込み上空へ。
マッターホルンもよく見える。上部はまだかなり白い。天気が良く、上空からの絶景を楽しんだ。
ツェルマットのヘリポートから10分もかからず、標高4,000m付近のランディングポイントへ。しかし、予想よりも風が強く、何度か試みるも着陸ができない。
するとパイロットから、「アルプフーベル(Alphubel)の近くなら着陸できそうだけど、そっちじゃだめ?」との言葉が。
ヘリの中での相談は、その間も燃料を使うので慌ただしい。パイロット、ガイド、そして我々登山客が、それぞれ早口の英語で主張をぶつけ合う。
結局パイロットの「もしモンテ・ローザの近くに下りられても、午後からもっと風が強まるから多分迎えに来れない」の一言で、アルプフーベルに決定。
当初の目標のマッターホルンから、ハードルを下げに下げた形にはなるが、こうなったらどこでもいいからピークに立ちたい!笑
ヘリで約3,800m地点の氷河に降り立つと、すぐさまアントワヌから、アンザイレンするまで歩き回らないように指示が。周辺はヒドゥンクレバスの巣らしい。アントワヌの通ったところを忠実にトレースし、慎重に突破。
無事にクレバス帯を抜け、その後は雪の稜線歩き。たまに岩が出ているところもあるが、傾斜はそれほどないので難しくはない。ただ頂上付近は爆風で立っているのもやっと。簡単な登山なんてないですね。
そしてあっという間に、ヘリを使わず下から登って来た他の登山者の冷たい目線を感じつつ、アルプフーベル(4,206m)に登頂!笑
マッターホルンと違ってクライミング要素は特になかったけど、スイスアルプスの眺めは素晴らしかった。
帰りはまた同じランデブーポイントに戻り、ヘリにてツェルマットへ。半日のお手軽登山を楽しんだ。